双子は桜を見に行ったが
僕は1日中、部屋に閉じこもって
オーディオブックや音楽を聴いていた。
村上春樹訳の「大いなる眠り」を聴いていた。
2回目。
原作は、1939年に刊行されているので
100年近く前が舞台になるんだけど
小気味のいいリズムカルな文章で
全く古さを感じさせない。
(新訳ってそういうものなんだろうけど)
主人公の私立探偵、マーロウがかっこいい。
彼のタフな交渉術は
実にアメリカ的で、日本人にはちょっとマネできないなと思わせる。
(アメリカ的か欧州的か、正直よくわからんが)
聴きながら
「村上春樹はなぜ訳したのか?そもそもなぜこの作品、作者に惹かれたのか?」を考えていた。
僕の場合、中国で中国語で生活してわかったのだけど
外国語は外国語のままで理解する。
脳みその中で、いちいち日本語に訳さない。
ただ、中国語で理解できるからといって、すぐに日本語に翻訳できるかとなると、そうはいかない。
実際、翻訳してみると、原文の雰囲気やリズム、ニュアンスががうまく伝えられず、やきもきする。
そもそも文化が違うから
「ノリの違い」みたいなのがうまく調整(翻訳)できない。
「日本だったらその場面でそんなことは言えないな」みないのもまろやかにして訳さねば読者が置いていかれる。
まあそれは素人のボヤキだろうが、
プロだとしても
というか、プロだからこそ
翻訳するとなると
ものすごいエネルギーだったに違いない。
本をまるごと一冊、
というかその作家の作品全てを翻訳する、というのは
とてつもない大事業だ。
一人の人間にそんなことが可能なのか?とさえ思ってしまう。
それをやってのけたというんだから、すごい。
気が遠くなるすごさだ。
学生のころ、村上春樹のエッセイを立ち読みしたときの文章を思い出した。
確か
「高校生のころから、英語の原文をガリガリと読んで自分の文体を作った」という趣旨のことが書いてあった。
衝撃だった。
「高校生で英語の小説を読んでいたのか??」
もちろん、
しーんと静かな本屋の中だったから
一人、心の中で叫んだだけだったが。
村上春樹は、この「大いなる眠り」を書いたレイモンド・チャンドラーだけでなく
レイモンド・カーヴァーという作家も全訳している。
10代のころから読んでいたんだそうな。
村上春樹の自伝小説とされる「ノルウェイの森」でも
主人公が「グレート・ギャツビー 」の原文を何度も読み返している、という設定だ。(その後、村上春樹は「グレート・ギャツビー 」を翻訳した)
村上作品には、
あんまり何度も「グレート・ギャッツビー」が登場してくるので
僕も学生のころ挑戦してみたけど
その良さがさっぱりわからなかった。
(1920年代、アメリカが超好景気で今の文化を形づくったということが感覚的にわかっていないと、読んでも意味がわからない、と今は分かる)
「ライ麦畑で捕まえて」にも
「グレート・ギャッツビー」が「名作」として登場してきて
ちょっとまいった。
そんなにすごいのか。
「グレート・ギャッツビー」の素晴らしさに気付けない程度の読解力ではあるが
レイモンド・チャンドラーの「大いなる眠り」は単純にそのすごさを感じた。
すごさの一つが
というか、僕にとって最大の魅力が
主人公「マーロウ」の芯の強さだ。
相手に迎合することがない。
それでいて相手を敵に回さず
自分を認めさせる。
自己肯定感の強い人間だけにできる芸当。
これは僕にできないことだ。
僕は気が付けば
相手に迎合しているか
迎合させているか
敵に回しているか
さよならするか
という
限られた選択肢しかない。
(これは日本人、特に東北の人間にそういう傾向があるとは思うが)
ドラマ「刑事コロンボ」を観ていても思ったことだが
「なぜ彼らは、相手に迎合することなく、ソフトな緊張関係を保ち続けながら、互いの要求を認めあうことができるのか?」
という点で
全く感心させられる。
どうやったらそんな高度なことができるのか?
オーディオブックを聴きながら
「相手に迎合せずに認め合う」という点を考えていた。
マーロウやコロンボは、なぜそれができるのか?
自分はなぜできないのか?
緊張関係を保ち続けること、
自分の要求をのませながらも軟着陸すること。
この疑問を考えると
すぐに「両親の愛情」が浮かんだ。
緊張関係を保ち続けること、
自分の要求をのませながらも軟着陸すること。
も
両親から愛情を注がれ
愛情を以てして自我が確立された人間ができることなんじゃないだろうか?
「要求を認め合う」
という行為は
日本ではあまり馴染みがないが
たぶん、それは地球上では多数派なんじゃないかと思う。
「要求を認め合う」という意識も文学も
日本には、あまりなかったのかも知れない。
日本の近代文学と言えば
森鷗外や夏目漱石が頭に浮かぶが
両者とも「自分はこれでいんだろうか?」的な悩みをド正面から書き綴っている。
「自己批判は文学の条件」のようにも聞こえるが
自己肯定感に欠ける、ともいえる。
ひるがえって
マーロウを見てみる。
マーロウも自嘲的なことを呟くことがあるけども
自己肯定感の強さからいえば、森鷗外や夏目漱石作品と比べると、すごく強い。
そうした自己肯定感の強さを
若かりし村上春樹は、アメリカ文学に求めたのかも知れない、と思った。
自己肯定感が強い主人公の物語をたどることで
救いを求めたのではないだろうか?
自己肯定感の強さを求めた結果、
アメリカ文学に行きつき
翻訳するほど読み込み、染みこませ
森鷗外や夏目漱石とは全く違うアメリカ的アプローチで
「自分」を表現したのかも知れない。
ああそうか。
自分を批判し続けた、森鴎外や夏目漱石に比べ
村上春樹の作品は「自分は存在してていいんだ」という点が
決定的に違うのかも知れない。
「自分は存在してていいんだ」という根柢にある優しさ
(本来は家族から得られるべき優しさ)が、
家族から愛を得られずいる人の支持を得て
「ハルキスト」を生み出しているのかも知れない。
「自分は村上春樹の愛読者です」と言うのに抵抗があるのは
「自分は家族から得られなかった愛情を、村上作品で補っているのです」というような気がしていたからかも知れない。
実際、自分の場合はそうなんだろうけど。
そんなことを一人
勝手に憶測していた。
双子が帰ってきた。
僕の部屋に来て
「満開だった‼」と報告して去っていった。
双子には
「マーロウ」のように自己肯定感の強い人間になってほしい。
そのためには僕自身が重要な存在になると考えるたび
気が遠くなる思いがする。
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